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新編相模風土記に描かれた篠窪

風土記には「江戸より行程21里、民戸49戸村の面積東西18町、南北13町」。明徳・応永の頃は二階堂出羽守政貞が所領たり」とある。

面積はおよそ7.34平方キロ。こじんまりした集落では1960年代までは農業が主産業だった。家屋もほとんど麦わら屋根だった。年代までは急斜面の畑で葉煙草栽培が主作物だった。葉たばこ乾燥小屋が今でも1棟残されている。集落内の地形は昔とほとんど変わっていない。変化は県道の篠窪大橋が出来たこと。家屋の配置も以前と変わらない。

昭和39(1964)年2月の篠窪集落の風景。民家は全て藁葺き。
篠窪集落の全景。小さな盆地に民家がたたずんでいる。